秩序
唐突に、自分の無秩序さに気付いた。
変わらなければいけない、と。
比較しなければ分からないところではあるけど、おそらく無秩序で気分屋。
それを自由人と呼ぶ。
そして柔軟宮なので、その場その場に合わせる自分というのがある。
それは無意識に演じてる自分なので、言ってることが違うと思われることがある。
でもそれは、その意見はひとつの意見としてありだしそういう気分のときもありますよ、ひとつの価値観として理解できますよ、という意味で、自分の考えや価値観というわけではない。
自分のそういうスケールの大きさが勘違いされてしまう。
楽しそうに飲んで美味しいと言ってたからお酒好きなんだろと言われて、毎週誘われて困る、みたいなことになりがち。
なので、そうはいってもこの場だから楽しそうにしてるのだろうと、ちゃんと想像して空気読んでくれる人が好き。
想像力があり、自分だったらと考えてくれる器の大きさを当たり前に求めてしまう。
もちろんみんなではない。
私が友人や家族に恵まれすぎているのだろう。
自分のスケールの大きさは変えられないだろう。
でも無秩序さは変えていくべきと感じてる。
社会人として。
そのためには、秩序について考えなければならなくなった。
秩序を守るためには、常識を持ち、行動し、家にいながらだって自制心が必要。
今の自分が思っている以上に。
そしてきっと秩序は、人の数だけあるもの。
近き人や、大切な人の秩序は学ばなければならない。
それから、私は正しいか間違ってるが全てのところがある。
これも考え方としては、正義感なので変えられない。
だけど、それを言葉にしてしまうかどうかは、立ち止まって考えていきたい。
正義よりルール、秩序を重んじる人もいる。
それを批判してはいけない。
それは彼、彼女にとっても正義なのだから。
相手に害なく、言葉を使うには相手や物事への理解がないといけない。
だけど自分にとって間違ってるルールを受け入れるのか?
そうではなく離れればよいこと。
批判せず離れる。
自分の意見を言うことさえ、批判になってしまうのだから。
自分が相手の言動により不快であることを、誠意を持って伝えないといけない場合もある。
と考えてきた。
突然消えるよりは誠実な場合がある。
そのときどう表現する?
言葉は誰かを傷つける武器ではない。
それを忘れないこと。
真実が正義だと信じている。
だけど人によっては毒となる。
あなたが何かを主張したいとき、それは起きる。
主張とは正義か。
口を尖らせ批判ばかりしてる人の姿を思い出せ。
あれは餓鬼の姿そのもの。
自分が優位に立ち、褒められたい姿、欲しがる姿。
美しくないことはしない。
急ぐこと急かせることもまた美しくない。
人をかきわけ、見えない棒でつつく忌ましい姿だ。
本音にこだわりすぎていたけれど、今これからは、美しいかどうかを考えて行動を選択していきたい。
美意識が人を作る。